町(永明地区)の歴史                    目次へ


 No.4 永明地区の中世(その1)

   源頼朝が平家一門を倒して、鎌倉に幕府を開いてから、織田信長が室町幕府の
  将軍足利義昭を奉じて、京都にはいった年までがふつう日本の中世といわれている。

   年代でいうと1192年(一説には1185年)から1568年まで。この間の永明地区
  の様子を示す資料は少ない。この時代の文献資料に出てくる地名として、建武二年
  (1335年)6月19日付けの新田義貞国宣に「大胡郷内野中村」とあるのや、
  彦部文書に宇坪井村(笂井)、小屋原村、今井村、片貝村とならんで大嶋村
  小島田村、長安(長磯か?)村の名が見えているくらいである。

   このころ(14世紀)の文書に幸塚、三俣、上原、石関などの地名も出てくるので、
  今から600年ほど前に、すでに永明地区にもいくつかの村が開けていたことがわかる。
  これらの地域は、文章の記載内容から判断すると、大胡に本拠をもった大胡氏の
  支配下にあったと考えられる。

   それぞれの村の範囲や人口、戸数などはわからないが、われわれの先祖が、
  もとの利根川に接する段丘上に、あるいは大島という地名が示す様な、旧利根川
  の中洲にあたる部分に村落を形成していたことを知る事が出来るのである。

   この中で、特に注目されるのは、前号でもふれておいた小島田の三角(みかど)
  という地名である。『前橋市史』(上巻)ではこれを御門(みかど)として、
  勢多郡禦(せたぐんが)(郡庁のようなところ)の所在地として推定している。ここが
  地籍図などに、どんなふうに記載されているか、知りたいものである。

                               (『農協えいめい』1971.9.20 17号)

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